素直になれない自分

母がこの世を去ろうとするのが見えたのは3年前の夏

 

一番やっちゃいけないことを

「わかっている」と言いながら続ける母。

 

自分が悪者になってもいいと思い

そっちじゃない!と警鐘を鳴らすも虚しく

届かなかった。

 

入退院を繰り返し始めたのが3年前の今頃。

自分は一切病院へは行かなかった。

病院では私の悪口を言いまくっていた。

かなりうるさく警鐘鳴らしてたからね。

 

その頃、出張で大阪に居た私は、

思いつきで京都のある人へ連絡して足を運んだ。

そういったことに敏感な方ですので、対策をご教示願おうと伺ったわけです。

「何か爆弾を落とさんとあかんね」

と、

ショッキングな言葉が必要とのことでした。

 

帰宅し、退院してきた母に相変わらず物申す私。

 

その後再び入院

入退院を繰り返すとはこのことか!

と感覚で理解する。

 

私は諦めず、母の行く方向を否定するため考える考える。

そして、病院へは行かない。

聞いた話で、母は私が来るのを期待していたが、

会いたいなら出てこいという無言の抵抗?です。

 

ある日、東京から戻る途中に叔母(母の実妹)から電話。

20分間だけ電話に出れるタイミングにかかってきた。

母の容体が良くないので、明日は必ず病院へ行くようにと。。。

実はその頃、父も腰の骨折で入院中

 

私が動けるのは叔母のおかげです。

叔母には感謝しかない。

 

私が母の病室に入ると、酸素マスク姿(ちょっと驚いた)の母は大きく目を見開いた。

叔母が母の表情の変化に驚いていた。

実際、母の記憶に残る最後の面会であった。

 

母は元気だった頃から、

自分の手術を決断する潔さと前向きに回復することに自信を持っていた。

だから『もし、余命告げられたら正直に教えて欲しい』って言ってた。

 

しかし、乳がん転移ではないが、別に癌が見つかったその現実を見た瞬間、

同じ病状、同じように母の従兄の奥さんを追いかけるように悪化。

『私もああなる』と、乳がんの先輩として見ていた。

結果、発病から生涯を終えるまで見事に◯ヶ月遅れで同じ道を辿っていた。

 

(のちに、私は癌の転移について衝撃の事実を知ることになる)

 

母は自ら余命宣告を受けていた。

春から秋まで修正かけられながら何度も宣告受けたようだ。

 

最後の宣告は見事、医者の言う通りだった。

医者の言葉の影響力を知ったのである。

だから医者は言葉を選ぶのだな…

 

69歳の誕生日まで生きれないと、

医師の言う通りになっていた。

誕生日の4日前の朝連絡が来た・・・

 

霊安室では担当医がどうしていいかわからない表情で立っていた。

コワモテと言われることのある私を初めて見て余計にそうだったと思う。

 

彼は一生懸命母と向き合ってくれました。

『残念ですが母が選んだ結果です、本当にお世話になりました。』

『ありがとうございます』と言って一礼した。

少しホッとした表情になってくれました。

 

身動きの取れない父はストレッチャーで病室へ戻っていった。

 

 

言いたいことは全て言った!

そう自負し悔いは無いと自分に言い聞かせた。

 

実際に亡骸と別れる際の行列の先頭で一気に溢れた。

悔しい、本当に悔しい!